Amigomr's second blog

このブログは MozillaJapan 翻訳部門や訳語決定会で活動している Amigomr の趣味など超私的なブログです。

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ここは Amigomr's 徒然日記の前の日記です。今はサーバ落ちの時などにのみ使っています。

金曜日, 9月 22, 2006

ショスタコーヴィチを聴く

今、NHK 交響楽団の演奏会をラジオで聴いています。今日はオール・ショスタコーヴィチ特集で指揮はロシア出身(現在は亡命したためアイスランド国籍)の音楽監督・アシュケナージです。

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906 ~ 1975)は旧ソ連時代の大作曲家です。ソ連時代には「ソ連が生んだ初めての音楽の天才」とまで称されていた人ですが、周りが相次いで亡命する中、唯一、亡命せずに命の危険を感じつつも作曲活動をした人です。彼の音楽は大変、難しいと思います。なぜなら言いたいことが表面からは感じ取れないのです。いくつかの交響曲では「戦争の勝利」と自称しておきながら大変、暗い終わり方をするものもあり矛盾が生じています。そのため、不可解な音楽を嫌う当局により何回も弾圧されました。

彼の音楽を最も理解していたのはその初演を幾度と無く行ったエフゲーニ・ムラヴィンスキーでしょう。彼はレニングラード・フィルを長く音楽監督していましたが、ショスタコーヴィチの交響曲を演奏して楽団員がなかなか理解しないのでこう言い放ったそうです。「君たちはこの曲がいつの時代に書かれたか分かっているか!」ショスタコーヴィチの音楽は、ただのオーケストラ作品ではありません。ベートーヴェンと同じ感情的な音楽です。ムラヴィンスキーはそれを踏まえたうえでスコアを深く分析して指揮しています。そしてそれを自信をもって演奏する。これこそ作曲者の望んだことだったのではないかと思います。

ショスタコーヴィチの音楽はオルガンを使っていないのにオルガンのような響きを出す技法が優れていると思います。弦楽器と金管楽器をうまくブレンドしたその音は重厚な響きを作り出します。これは少しでもズレれば致命的なものです。ムラヴィンスキーやバルシャイ(ロシアの指揮者。交響曲全集をリリースしている)などの指揮者の腕が光っています。

私はショスタコーヴィチの音楽が好きです。その恐ろしい、今にも KGB が玄関に迫ってくるような音楽を共感することが。

土曜日, 9月 16, 2006

バックハウスを聴く

バックハウスのベートーヴェン・・・といえば「レコード芸術」などで有名な音楽評論家・宇野功芳をしてこういわせた--
「(バックハウスのベートーヴェンピアノソナタ全集は)クラシック音楽の愛好家にとっても、また専門のピアニストにとっても聖典といえるもので、男性的な雄々しさ、スケールの大きさ、内容の深さにおいてほかのピアニストの遠く及ぶところではない。」(学研「クラシックCDエッセンシャルガイド100 ピアニスト編」から「ヴィルヘルム・バックハウス」の項所収)

私はまだ、彼の全集を聴いていない。私が聴いたのは「ベートーヴェン四大ピアノソナタ集」(Decca UCCD-7002、「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」「熱情」)である。これはいずれも全集からセレクトされたものである。そしてこれは私が初めて買ったベートーヴェンのピアノソナタの CD でもあった。最近の音楽家は確かにミスタッチもなく正確に弾いてくれるのだが、その演奏に作曲家がいない。だが、バックハウスの音楽はまるでベートーヴェンが降臨したかのようである。彼の(一般的な意味での)技術力はどちらかと言えば現代ピアニストに比べ劣っている。だが、記者に「暇なときは何をしていますか?」という問に「・・・ピアノを弾いています」と答えたこのピアニストは技術を超えたものを我々に感じさせる。フルトヴェングラーもそうだったが、何と凄いだろう。彼の音楽は常にピアノをチェロのような音色で弾く印象がある。彼はピアノで遊ばない。どんなに軽い旋律も彼はじっくりと味わうように奏でる。彼はベートーヴェンの心を最もよく理解しているのではないだろうか。ベートーヴェンに春が訪れたのは交響曲4番を書いていたほんの数ヶ月だけだった。ベートーヴェンは少年時代、そして青年時代、そして大作曲家時代、晩年を通して常に冬であった。このことをバックハウスはよく理解している。ベートーヴェンの音楽はそれをよく精神的に研究した人や同じぐらいの苦悩を味わった人にのみ理解されるものである!

木曜日, 9月 14, 2006

ブラームス「交響曲4番」

ブラームスの「交響曲4番」ほど悲嘆に暮れた音楽はあまりない(強いてあげるならチャイコフスキーか)。彼の初期の音楽はウィーン古典派を代表しただけあってベートーヴェンやハイドンの影響を色濃く受けていたが、彼の晩年は「古典派の中のロマン派」であった。実際、この「交響曲4番」ではパッサカリアといわれる古い技法やバッハのカンタータからの引用などが目立つ。

特に有名なのが政治思想家・丸山真男を始めとする多くの音楽愛好家が唱えた「冒頭の H 音の重要性」である。彼らはその根拠としてフルトヴェングラー指揮の同曲演奏を模範にしている。このフルトヴェングラーの H 音には逸話がある。フルトヴェングラー死去後、同職を継いだカラヤンは偶然、この曲をベルリン・フィルと行った。すると楽団員たちはこの「天から降りる音」を奏でた。カラヤンは驚き、それを自分のものにしようと研究した。しかしその音は二度と復元できなかったと言う。これはフルトヴェングラーの「H 音」が再現しようのないものだったことを表すものだ(カラヤンは模倣が上手かったができなかった)。

この交響曲4番に表れているのは一人の人間の孤独ではないかと思います。第四楽章の冒頭の音は孤独になってしまった人の音楽じゃないかと思います。「ホ短調」で書かれた交響曲は当時、この曲だけでしたが、そこにブラームスの正常でない状態が表れているのではないでしょうか。

月曜日, 9月 11, 2006

ベートーヴェンのピアノソナタにブラームスが


以前にも取り上げた「Blue Sky Label」さんの所のバックハウスが弾いたベートーヴェンのピアノソナタ29 番「ハンマークラーヴィア」の第三楽章を聴いていて驚いた。途中であのブラームスの交響曲4番の最初の音階らしきものが現れたのである。「ターラターラー」というあの最初の音階が。 ベートーヴェン晩年の音階をブラームスは晩年の交響曲で使ったのは一体、なぜなのか。不思議である。

(追記)ブラームスの Sym4 の冒頭部分を無料楽譜サイトから画像ファイルに加工して添付します(Public Domain だそうです)。

土曜日, 9月 09, 2006

クレンペラー -- 周囲の無理解に闘った指揮者

クレンペラーという指揮者をご存知だろうか。オットー・クレンペラー(1885 ~ 1973)はドイツ生まれの指揮者で、かの有名なグスタフ・マーラーと会ったことがある(後述)。同じく弟子のブルーノ・ワルターと共に長くマーラーの弟子的扱いを世間で受けた。

クレンペラーは多分、指揮者史上、最も多くの困難を背負った人であったろう。マーラーとの出会い話もそうした苦労の一つである。クレンペラーはマーラーに出会ったとき彼の方はマーラーの交響曲のピアノ4手編曲版を自分で作って持ってきていたのに対して、マーラーはこの若者を知らなかった。それは無理なかった。クレンペラーは平指揮者だったのに対してマーラーはウィーン国立歌劇場の音楽監督だったからである。当時のウィーンはまだ階層差があったので2人が互いに知っているはずがなかった。しかしマーラーはこの若者に出会ったとき、自身の作品を立派に編曲したことに感動したためか自分の推薦状を若者に書いてやった。クレンペラーはその推薦状のお陰でプラハのドイツ歌劇場の合唱指揮者兼楽長という高位を得た。また、その3年後の 1910 年にはまた推薦状のお陰でドイツのハンブルク歌劇場の楽長となれた。

その後、彼は数多くの歌劇場の監督などになり、ついにベルリン・フィルにも初出演する(1921)のだが、彼の栄光はそこから地獄への道を進むこととなってしまう。1933 年にライプツィヒでリハーサル中に指揮台から転落、頭を強打してしまった。これが後の彼の無理解を生むこととなる病の発症源となってしまう。また、同年にはナチスが台頭し、ユダヤ人であるクレンペラーは出国を余儀なくされた。一方でウィーン・フィルと初共演しているが、それでもナチスの手は伸びてきそうだったのでアメリカへ拠点を移すこととなった。しかし、1933 年の転落事故は悪影響を及ぼし始めた。1939 年には脳腫瘍(事故が原因と考えられている)の手術を受けたが、その代償は右半身の不調という大きなものだった。戦時中には彼はいくつかの録音を残しているが 1947 年には当時、住んでいたロスアンジェルスの下町で強盗に遭い頭を負傷してしまった。一方、その年以降、クレンペラーは再びヨーロッパで活躍し始めた。同年、ウィーンで戦後、初めて指揮をし、ザルツブルク音楽祭に出演、そしてブダペスト国立歌劇場の指揮者という地位を得られた。

1951 年に EMI のレッグというプロデューサーが作ったオーケストラ・フィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮(ロンドン)、レッグに強い印象を与えた。しかし、同年にはモントリオールの空港階段で転倒しそれ故に 1955 年まで車椅子生活をすることになった。しかし、幸い、その影響は小さく、スイスのチューリヒに引越したり 1954 年にはレッグによってフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングできるようになった。

こうした彼のあわただしい状況で彼の精神状況はおかしくなってしまう。1958 年には多幸症となってしまうが、同年には寝タバコによる全身大火傷を負って 1 年間指揮できなくてなってしまった。
その後、1962 年までは充実した日々を送ることができた。しかし、1962 年には多幸症から、うつ病へ移ってしまった。そんな中、更なる悲劇が彼を襲う。1964 年、EMI 社内の自身の影響力の低下を心配したレッグが退社し新たにフィルハーモニア管弦楽団(+合唱団)を自身の願いどおりのレコードへレコーディングさせようとしたが、それに失敗。レッグはやむなく、オーケストラの解散を発表した。無論、オーケストラはそれに反発。オーケストラはレッグから自立することを決定、クレンペラーに総裁職への就任を依頼、クレンペラーはそれを受け入れオーケストラはニュー・フィルハーモニア管弦楽団と名称を改めた。その後、彼らは多くの名盤を作ったがクレンペラーは自身の指揮活動を公の場から下げることとし 1971 年、ロンドンで恩師マーラーの「復活」交響曲を指揮して引退した。そして、引退発表後、1973 年、チューリヒで雷が鳴るという夜に亡くなった。

彼の名盤は数多くあるが、若い頃の録音と晩年の録音の違いに驚く人は余りにも多い。例えばウィーン交響楽団との「ミサ・ソレムニス」(1951 年)でクレンペラーは超早テンポを取っている。だが晩年に録音した「ミサ・ソレムニス」は超スローテンポである。同じ人が指揮したとは考えにくいだろう。晩年の「ミサ・ソレムニス」は名盤と呼ばれることが多い。その崇高でかつ雄大な演奏は聴く者を無心にさせてしまう。彼のバッハ「管弦楽組曲」も、ダイナミックにしかし、落ち着きながらゆっくりと音楽を進めている。バッハと言うと私なんぞは退屈してしょうがないがこの演奏は退屈しない。彼の右半身不調は完治しなかったためオペラは向いていないと思われがちだが、それは全くの誤解だろう。彼は経歴の通り劇場で指揮をしていた指揮者である。私が唯一、持っているベートーヴェンの「フィデリオ」は 1961 年にロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場でクレンペラーが指揮と演出までしたものである。ロンドンの下町っ子がレオノーレ序曲に気が付かず拍手し続けるというハプニングまで収録されているがその惜しみない拍手は最後まで継続される。最後のドラマティックしかし楽器の音色を乱さない指揮は正にクレンペラーの長所。必ず聴くべきであろう。

木曜日, 9月 07, 2006

チェリビダッケ--まさに鬼才

今日はチェリビダッケについて。この鬼才を知らない人がいても私は怒りません(何せ彼は録音を毛嫌いしたんです)。
セルジュ(またはセルジウ)・チェリビダッケ(1912 ~ 1996)はルーマニア出身の指揮者。若い頃よりサイ・ババなどのキリスト教異端や禅などへアプローチをしていた特殊な経歴をもつ(特に禅は彼の音楽に深く影響していると言われる)。 その指揮者デビューは 1945 年にベルリンのソ連管轄地域でのコンクールで優勝したことによるベルリン・フィルへの出演である。当時のベルリン・フィルは音楽監督のフルトヴェングラー不在の状況で大変、困っていたため、チェリビダッケはその再建に尽力(彼はフルトヴェングラーの信奉者の一人でもあった)。その甲斐あってか二年後にはフルトヴェングラーの復帰を実現させている。
彼は生涯を通じて「完璧主義者」だった。自分の意思に反する者は例え、それがコンサート・マスターであっても怒鳴った。そのためかベルリン・フィルの楽団員はこの若者を有望な者と思いつつ徐々に距離を置くようになっていった。またチェリビダッケが海外へ積極的に行き、そこでベルリン・フィル批判をするといった行為は楽団員の疎遠化をより促した。結果、彼は 1952 年にベルリン・フィルの常任指揮者を辞め、以後は北欧などで暗い指揮活動を行っていた。1972 年、南ドイツのシュトゥットガルト放送交響楽団の首席客演指揮者待遇を受けて、同楽団にきりっと引き締まる音作りを叩き込んだ(それが今のノリントンに受け継がれているかどうかは疑問だが)。1979 年にはミュンヘン・フィルの芸術監督兼ミュンヘン市音楽総監督に就任。その独自の世界を展開した。

以上が彼の「伝記」である。彼の特徴は(特にミュンヘン時代)、音響にとかくこだわったこと。彼の緩いテンポは常に問題になるが、これは彼が音響と音作りにこだわったものによるものだろう(音響を想像して CD を聞くべき)。また、彼の演奏はフルトヴェングラーを信奉していたとは言え、決してドラマティックになりすぎない。彼は楽譜を深く読み、そこに何かを見出すという人だった。しかもアーノンクールのように楽理分析をするだけでなく思想的に読んでいたということも特徴だろう。

彼の演奏はシュトゥットガルト時代がドイツ・グラムフォン、ミュンヘン時代が EMI 、ベルリン時代とその後の放浪時代については各種復刻レーベルからそれぞれ、リリースされている。彼はブラームスの交響曲4番を得意としていた。彼はこの曲をソ連主催のコンクールで演奏し優勝したのである。まずはこれがお勧めである。幸いなことにこれはシュトゥットガルト時代もミュンヘン時代にも録音されている。
彼のブルックナーは特に有名だったがこれを聴くのは時間を要する。大抵、CD 2枚のはずだ。このブルックナーについては私はまだ分かっていない。

チェリビダッケは鬼才といえる。彼を模倣する人は何人もいたが、それを実現できた人はいなかった。

水曜日, 9月 06, 2006

ムラヴィンスキーについて

旧ソ連の指揮者・エフゲーニ・ムラヴィンスキーの録音がロシアのレコード会社「ヴェネツィア」社より最近、リリースされている。これを機にムラヴィンスキーについて述べてみたい。

エフゲーニ・ムラヴィンスキー(1903 ~ 1988)は旧ソ連の名門オケ・レニングラード・フィルを半世紀に渡って指揮した旧ソ連一の名指揮者である。かの有名なショスタコーヴィチとは友人の関係にあり、彼の交響曲5 番はムラヴィンスキーのレニングラード・フィル音楽監督就任を決めた作品であり、8 番はムラヴィンスキーに捧げられている。ムラヴィンスキーは長らく「幻の指揮者」と日本で言われていたが 1973 年に来日。その後、4回来日した(同氏は初来日以降、日本人を特に好んだ)。

まず、挙げなくてはならないのは 1979 年の来日時の「ワルキューレの騎行」。フルトヴェングラーの「ワルキューレの騎行」とははっきり言って比較にならない。大音響で、しかし冷静に進む 4 分の音楽である。

次に挙げるのはベートーヴェンの交響曲第五番(1972 年、モスクワでのステレオ録音)。特に第四楽章の冒頭。ティンパニが雪崩落ちるように入ると弦楽器が栄光の音楽を奏でる。実はこんな演奏は他になく、無論、スコアでそのような表記はなされていないのだが、そんなことはもう論じる必要すらない。
彼の定番はショスタコーヴィチだが、その演奏は全てがもう、キリスト教の聖書のような絶対的な価値を持っている。彼はショスタコーヴィチの全集を作っていないが、本当に残念だ。

彼の音楽の特徴は「貴族的」。ロシアのオーケストラは金管楽器を派手に(というより下品なことも)弾くことが多いが、ムラヴィンスキーは金管をうまくコントロールしている。最近の指揮者で冷静に指揮しつつ激しい音を出せる指揮者は滅多にいない。ムラヴィンスキーはそれを実現できた指揮者だった。

フルトヴェングラー賛歌

この前、ベルリン・フィルとラトルについて書いたので、それ以前のベルリン・フィルの名音楽監督として知られたウィルヘルム・フルトヴェングラー(1886 ~ 1954)について書きたい。彼はすでに没後50周年を経た指揮者なのでインターネットのサイトでも彼の指揮を聞ける(例:Blue Sky Label )。

彼がベルリン・フィルの音楽監督だったのは戦前から戦後までという激動期だった。特に戦時中にナチスに(ドイツ国内にいるのに)反抗したというのは特筆されるべきだろう。彼は、なぜナチスがいるドイツに留まったのかという問に対して戦後の非ナチ化裁判で次のように答えている:
「私は、自分がドイツの音楽家としてドイツと言う名のために外国で活動したいと言いました。これはナチス政権の名のためという意味ではありません。」(「フルトヴェングラー 悪魔の楽匠」116 ページ)
さらに、彼は多くのユダヤ人を助けた(あったこともない人を含めて)。ナチスはそれを知ってはいたがフルトヴェングラーのその知名度の高さゆえに殺せなかった(崩壊直前になってナチスは彼を殺そうとしたが、彼は間一髪、スイスへ逃れた)。

そろそろ、彼の音楽論に行こう。彼の音楽は戦時中に皮肉にもナチスによって録音されたものが数多くある(それらの大半は後にソ連が接収していった)。特に、私が聴くのは 1944 年12月のウィーン・フィルとのベートーヴェンの交響曲3番「エロイカ」(通称:ウラニアのエロイカ)である。第一楽章のティンパニはかつて聴いたことのないぐらい荒れ狂っている 。その音楽は推進力によって満たされ、まさに英雄の進む道である。第二楽章は数ある名盤の中で最も優れている。ウィーン・フィルはその美しさで知られていたが、この第二楽章は二度とない名演。弦楽器は哀しみの中にある。金管楽器も誇り高く鳴っている。もう第三楽章と第四楽章については論じる必要はないだろう。
もう一つ。戦時中の録音から 1942 年のベルリン・フィルとの「第九」を挙げる必要があるだろう。「歓喜の歌」だが、この演奏では歓喜は姿を消してしまっている。第四楽章の有名な歓喜の歌はここでは意味を失ってしまっている。

戦後の録音からは 1951 年のバイロイト祝祭管弦楽団との「第九」を挙げよう。長らく「名盤」と呼ばれてきたものである。自由へと開放された彼の音楽は「歓喜」という言葉に最もふさわしい。この「第九」ほど「歓喜」に満ちた「第九」はあるまい。
もう一つ。 1947 年のフルトヴェングラーが音楽活動を再開できた最初の演奏会の「運命」。ここでは第一楽章よりもむしろ第四楽章がすばらしい。第四楽章は栄光に突き進むような音楽だからだ。
1951 年の北ドイツ放送交響楽団とのブラームスの「第一」は戦後とは思えない燃えに燃えた名演。特に第一楽章がすごいだろう。

1950 年のスカラ座でのワーグナ「指輪」四部作では大変、音質は悪いがドラマティックな演奏が繰り広げられている。何よりブリュンヒルデ役を世紀のソプラノのキルステン・フラグスタッドが演じているのはこの名演を生む要素の一つだろう。

フルトヴェングラーはよく 20 世紀最高の指揮者と言われる。カラヤン以前の指揮者では最もリリースが多い指揮者だろう。彼の音楽については今後も書きたい。

日曜日, 9月 03, 2006

ラトル with ベルリン・フィルは合わない

どうしても腑に落ちないのがサー・サイモン・ラトル氏のベルリン・フィル就任だ。バーミンガム市響での実績が高く評価されての就任だったが、彼の演奏スタイルは個性に欠けている。

例えば、無駄に古楽演奏を試みること。今のベルリン・フィルはアバドから引き継いだ優秀なオーケストラ力がある。なのにそれを無視して古楽に走るのはどうだろう。だったら18世紀オーケストラに指揮しに行けば良いと思うのは私だけだろうか。
彼は現代音楽に並みならぬ興味を抱いているようだが、彼は現代音楽といってもマーラーで終わってしまっている。私自身、現代音楽はほとんど嫌いだが、それでもショスタコーヴィチなどはよく聞く。ラトルは作品の出来た時代背景を余り知らないらしい。技術面での彼の功績は高いかもしれないが、ショスタコーヴィチはロシアのあの貧しい楽器によるムラヴィンスキー盤が高く評価されることからも分かるように、技術面ではなく感情面も重要ではないだろうか。

ラトルはウィーン・フィルとも数多くの共演で知られているが、彼はあのムジークフェラインで美しい音を鳴らしきっていない。彼はウィーン・フィルからニューイヤーコンサートを持ちかけられてもおらず、本当に相性が良いのだろうか。青二才の指揮者とただ触れてみたいというのがウィーン・フィルの人々の思いでは、とすら思う。

かつてベルリン・フィルの指揮者はいずれもドイツ音楽を得意としていた。フルトヴェングラーは没後50年経っても忘れられないベートーヴェン演奏で知られ、後任のカラヤンも商業的ではあったがドイツ音楽をやはり中心レパートリーにおいていた。さらに後任のアバドもドイツ音楽では若い頃にフルトヴェングラーのリハーサルに行ったことがあることあってイタリア人でありながら得意としている。だが、ラトルは現代音楽の功績は良いが、全ての音楽における基礎のドイツ音楽がどうも上手いとは言えない。デビュー直後の「第九」は盛り上がりに欠け、オーケストラも十分にベートーヴェンを弾いてはいなかった(同じ楽団の 1942 年のフルトヴェングラー指揮「第九」と比較してみよ)。

アバドの健康不良のためラトルは就任したとされる。だが、ヤンソンスやティーレマンといった指揮者がベルリン・フィルのシェフになっても良かったのではないだろうか。

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