クレンペラー -- 周囲の無理解に闘った指揮者
クレンペラーという指揮者をご存知だろうか。オットー・クレンペラー(1885 ~ 1973)はドイツ生まれの指揮者で、かの有名なグスタフ・マーラーと会ったことがある(後述)。同じく弟子のブルーノ・ワルターと共に長くマーラーの弟子的扱いを世間で受けた。
クレンペラーは多分、指揮者史上、最も多くの困難を背負った人であったろう。マーラーとの出会い話もそうした苦労の一つである。クレンペラーはマーラーに出会ったとき彼の方はマーラーの交響曲のピアノ4手編曲版を自分で作って持ってきていたのに対して、マーラーはこの若者を知らなかった。それは無理なかった。クレンペラーは平指揮者だったのに対してマーラーはウィーン国立歌劇場の音楽監督だったからである。当時のウィーンはまだ階層差があったので2人が互いに知っているはずがなかった。しかしマーラーはこの若者に出会ったとき、自身の作品を立派に編曲したことに感動したためか自分の推薦状を若者に書いてやった。クレンペラーはその推薦状のお陰でプラハのドイツ歌劇場の合唱指揮者兼楽長という高位を得た。また、その3年後の 1910 年にはまた推薦状のお陰でドイツのハンブルク歌劇場の楽長となれた。
その後、彼は数多くの歌劇場の監督などになり、ついにベルリン・フィルにも初出演する(1921)のだが、彼の栄光はそこから地獄への道を進むこととなってしまう。1933 年にライプツィヒでリハーサル中に指揮台から転落、頭を強打してしまった。これが後の彼の無理解を生むこととなる病の発症源となってしまう。また、同年にはナチスが台頭し、ユダヤ人であるクレンペラーは出国を余儀なくされた。一方でウィーン・フィルと初共演しているが、それでもナチスの手は伸びてきそうだったのでアメリカへ拠点を移すこととなった。しかし、1933 年の転落事故は悪影響を及ぼし始めた。1939 年には脳腫瘍(事故が原因と考えられている)の手術を受けたが、その代償は右半身の不調という大きなものだった。戦時中には彼はいくつかの録音を残しているが 1947 年には当時、住んでいたロスアンジェルスの下町で強盗に遭い頭を負傷してしまった。一方、その年以降、クレンペラーは再びヨーロッパで活躍し始めた。同年、ウィーンで戦後、初めて指揮をし、ザルツブルク音楽祭に出演、そしてブダペスト国立歌劇場の指揮者という地位を得られた。
1951 年に EMI のレッグというプロデューサーが作ったオーケストラ・フィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮(ロンドン)、レッグに強い印象を与えた。しかし、同年にはモントリオールの空港階段で転倒しそれ故に 1955 年まで車椅子生活をすることになった。しかし、幸い、その影響は小さく、スイスのチューリヒに引越したり 1954 年にはレッグによってフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングできるようになった。
こうした彼のあわただしい状況で彼の精神状況はおかしくなってしまう。1958 年には多幸症となってしまうが、同年には寝タバコによる全身大火傷を負って 1 年間指揮できなくてなってしまった。
その後、1962 年までは充実した日々を送ることができた。しかし、1962 年には多幸症から、うつ病へ移ってしまった。そんな中、更なる悲劇が彼を襲う。1964 年、EMI 社内の自身の影響力の低下を心配したレッグが退社し新たにフィルハーモニア管弦楽団(+合唱団)を自身の願いどおりのレコードへレコーディングさせようとしたが、それに失敗。レッグはやむなく、オーケストラの解散を発表した。無論、オーケストラはそれに反発。オーケストラはレッグから自立することを決定、クレンペラーに総裁職への就任を依頼、クレンペラーはそれを受け入れオーケストラはニュー・フィルハーモニア管弦楽団と名称を改めた。その後、彼らは多くの名盤を作ったがクレンペラーは自身の指揮活動を公の場から下げることとし 1971 年、ロンドンで恩師マーラーの「復活」交響曲を指揮して引退した。そして、引退発表後、1973 年、チューリヒで雷が鳴るという夜に亡くなった。
彼の名盤は数多くあるが、若い頃の録音と晩年の録音の違いに驚く人は余りにも多い。例えばウィーン交響楽団との「ミサ・ソレムニス」(1951 年)でクレンペラーは超早テンポを取っている。だが晩年に録音した「ミサ・ソレムニス」は超スローテンポである。同じ人が指揮したとは考えにくいだろう。晩年の「ミサ・ソレムニス」は名盤と呼ばれることが多い。その崇高でかつ雄大な演奏は聴く者を無心にさせてしまう。彼のバッハ「管弦楽組曲」も、ダイナミックにしかし、落ち着きながらゆっくりと音楽を進めている。バッハと言うと私なんぞは退屈してしょうがないがこの演奏は退屈しない。彼の右半身不調は完治しなかったためオペラは向いていないと思われがちだが、それは全くの誤解だろう。彼は経歴の通り劇場で指揮をしていた指揮者である。私が唯一、持っているベートーヴェンの「フィデリオ」は 1961 年にロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場でクレンペラーが指揮と演出までしたものである。ロンドンの下町っ子がレオノーレ序曲に気が付かず拍手し続けるというハプニングまで収録されているがその惜しみない拍手は最後まで継続される。最後のドラマティックしかし楽器の音色を乱さない指揮は正にクレンペラーの長所。必ず聴くべきであろう。
クレンペラーは多分、指揮者史上、最も多くの困難を背負った人であったろう。マーラーとの出会い話もそうした苦労の一つである。クレンペラーはマーラーに出会ったとき彼の方はマーラーの交響曲のピアノ4手編曲版を自分で作って持ってきていたのに対して、マーラーはこの若者を知らなかった。それは無理なかった。クレンペラーは平指揮者だったのに対してマーラーはウィーン国立歌劇場の音楽監督だったからである。当時のウィーンはまだ階層差があったので2人が互いに知っているはずがなかった。しかしマーラーはこの若者に出会ったとき、自身の作品を立派に編曲したことに感動したためか自分の推薦状を若者に書いてやった。クレンペラーはその推薦状のお陰でプラハのドイツ歌劇場の合唱指揮者兼楽長という高位を得た。また、その3年後の 1910 年にはまた推薦状のお陰でドイツのハンブルク歌劇場の楽長となれた。
その後、彼は数多くの歌劇場の監督などになり、ついにベルリン・フィルにも初出演する(1921)のだが、彼の栄光はそこから地獄への道を進むこととなってしまう。1933 年にライプツィヒでリハーサル中に指揮台から転落、頭を強打してしまった。これが後の彼の無理解を生むこととなる病の発症源となってしまう。また、同年にはナチスが台頭し、ユダヤ人であるクレンペラーは出国を余儀なくされた。一方でウィーン・フィルと初共演しているが、それでもナチスの手は伸びてきそうだったのでアメリカへ拠点を移すこととなった。しかし、1933 年の転落事故は悪影響を及ぼし始めた。1939 年には脳腫瘍(事故が原因と考えられている)の手術を受けたが、その代償は右半身の不調という大きなものだった。戦時中には彼はいくつかの録音を残しているが 1947 年には当時、住んでいたロスアンジェルスの下町で強盗に遭い頭を負傷してしまった。一方、その年以降、クレンペラーは再びヨーロッパで活躍し始めた。同年、ウィーンで戦後、初めて指揮をし、ザルツブルク音楽祭に出演、そしてブダペスト国立歌劇場の指揮者という地位を得られた。
1951 年に EMI のレッグというプロデューサーが作ったオーケストラ・フィルハーモニア管弦楽団を初めて指揮(ロンドン)、レッグに強い印象を与えた。しかし、同年にはモントリオールの空港階段で転倒しそれ故に 1955 年まで車椅子生活をすることになった。しかし、幸い、その影響は小さく、スイスのチューリヒに引越したり 1954 年にはレッグによってフィルハーモニア管弦楽団とレコーディングできるようになった。
こうした彼のあわただしい状況で彼の精神状況はおかしくなってしまう。1958 年には多幸症となってしまうが、同年には寝タバコによる全身大火傷を負って 1 年間指揮できなくてなってしまった。
その後、1962 年までは充実した日々を送ることができた。しかし、1962 年には多幸症から、うつ病へ移ってしまった。そんな中、更なる悲劇が彼を襲う。1964 年、EMI 社内の自身の影響力の低下を心配したレッグが退社し新たにフィルハーモニア管弦楽団(+合唱団)を自身の願いどおりのレコードへレコーディングさせようとしたが、それに失敗。レッグはやむなく、オーケストラの解散を発表した。無論、オーケストラはそれに反発。オーケストラはレッグから自立することを決定、クレンペラーに総裁職への就任を依頼、クレンペラーはそれを受け入れオーケストラはニュー・フィルハーモニア管弦楽団と名称を改めた。その後、彼らは多くの名盤を作ったがクレンペラーは自身の指揮活動を公の場から下げることとし 1971 年、ロンドンで恩師マーラーの「復活」交響曲を指揮して引退した。そして、引退発表後、1973 年、チューリヒで雷が鳴るという夜に亡くなった。
彼の名盤は数多くあるが、若い頃の録音と晩年の録音の違いに驚く人は余りにも多い。例えばウィーン交響楽団との「ミサ・ソレムニス」(1951 年)でクレンペラーは超早テンポを取っている。だが晩年に録音した「ミサ・ソレムニス」は超スローテンポである。同じ人が指揮したとは考えにくいだろう。晩年の「ミサ・ソレムニス」は名盤と呼ばれることが多い。その崇高でかつ雄大な演奏は聴く者を無心にさせてしまう。彼のバッハ「管弦楽組曲」も、ダイナミックにしかし、落ち着きながらゆっくりと音楽を進めている。バッハと言うと私なんぞは退屈してしょうがないがこの演奏は退屈しない。彼の右半身不調は完治しなかったためオペラは向いていないと思われがちだが、それは全くの誤解だろう。彼は経歴の通り劇場で指揮をしていた指揮者である。私が唯一、持っているベートーヴェンの「フィデリオ」は 1961 年にロンドンのコヴェントガーデン王立歌劇場でクレンペラーが指揮と演出までしたものである。ロンドンの下町っ子がレオノーレ序曲に気が付かず拍手し続けるというハプニングまで収録されているがその惜しみない拍手は最後まで継続される。最後のドラマティックしかし楽器の音色を乱さない指揮は正にクレンペラーの長所。必ず聴くべきであろう。

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