Amigomr's second blog

このブログは MozillaJapan 翻訳部門や訳語決定会で活動している Amigomr の趣味など超私的なブログです。

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ここは Amigomr's 徒然日記の前の日記です。今はサーバ落ちの時などにのみ使っています。

日曜日, 10月 29, 2006

吉田秀和 考

今日は珍しく評論家を評論します(?)。対象は日本を代表する音楽評論家・吉田秀和氏(1913 ~)です。氏は先日、文化勲章を受章されたのでご存知の方も多いと思いますが、クラシック音楽の世界では超有名人です。御年93 歳。

受賞理由が「美しい文章」というのももっともなこと。それぐらい文章表現(というより観察)に長けている人です。ホロヴィッツを「ひび割れた骨董品」と評したことやムラヴィンスキー来日公演を聴いたときのムラヴィンスキーに対する表現法は今でも広く知られています。またグレン・グールドを逸早く紹介したのも氏です。

ただ文章表現には優れていますが、結構、一般的な考えからはずれている所があります。氏は革新的なものを賛美し、また録音の優れたものを賛美します(特に古典音楽では顕著)。一方で20世紀音楽に対して深い造詣がありその道では優れた成果を挙げています。

この日本クラシック音楽評論の大家は実は最近、奥さんの死去によって深く傷つきずっと文章を書いてきませんでした。「レコード芸術」(日本におけるクラシック雑誌の代表的存在)では長く「お休み」状態になっていましたが、実際は「絶筆」と思われていました。それが最近、氏の復帰が実現したことであの美しい文章が再び読めるようになりました。

御年93歳。中原中也や小林秀雄、斉藤秀雄といった故人と親しかったこの人は未だに健在です。

木曜日, 10月 19, 2006

斎藤秀雄を聴く

日本の戦後指揮界を代表する人として齋藤秀雄(1902 ~ 1974)がいる。以前の私は齋藤秀雄というと「冷たい指揮者」というイメージがあった。それはひとえに「齋藤メソット」とも称される独立した指揮体系を独力で築きあげたことによる誤解だった。 彼の弟子として有名なのは小沢征爾や山本直純(故人)などであるが、この2人の指揮を見ているとまさしく熱情的な指揮をしている。はてこれは師匠のイメージと違うと思ったのが聴き始めの最初だった。

前、読んだことのある齋藤秀雄著「指揮法」は未だに音楽之友社から出版されているが、私が図書館から借りたときにはしわくちゃだった。それほど、この本は読まれた。というのも当時、指揮法というものは体系化されておらず、多くが指揮者の個性表現のままであった(つまり技術ではなかった)。事実、フルトヴェングラーは楽団員たちから理解不能とまで称され、それを真似した大御所・近衛秀麿は「振ると面食らう」とまであだ名された(むろんフルトヴェングラー似だったことをもじっている)。齋藤はこうしたことを知っていたのか、それとも父親が英和辞典の名編集者のせいか体系化を図った。

彼の音楽は詳細な分析とその分析に基づく表現によった。その分析はもちろん、冷静に楽譜を読むことでもあったが、彼は感情的に読むことを忘れなかった。例えば、彼の指揮した録音でブラームスの交響曲1番はその最たるもの。かなり激しく演奏している。

齋藤秀雄は桐朋学園で教鞭を取ったが、その厳しさは相当なものだった。指使いから直されたという人も数多くいる。特に出欠には厳しく「風邪を引いていても熱が出ていても練習に出ろ」というのは未だに語り継がれている。

木曜日, 10月 05, 2006

モーツァルトを聴く

「何でお前はマイナーなショスタコーヴィチなんかを書いてよりポピューラーで今年、生誕250周年で世界中が騒いでいるモーツァルトを書かないんだ?」と聞かれそうで、怖かったのですが、今日、NHK 音楽祭(初日)をラジオで聴くに際してモーツァルトについて書いてみることにしました。

ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756~1791)については映画「アマデウス」で余りにも有名ですのでここでは簡単な紹介をします(必要ないかも)。
父親は有名なバイオリン弾きで教本も作ったレオポルド・モーツァルト。生まれたのはカトリックの大司教が自治していたオーストリアの山中の街・ザルツブルク(サウンド・オブ・ミュージックの舞台でも有名)。幼時よりその天才ぶりを発揮し、神童と謳われる。ヨーロッパ中を楽器を携えて旅行した。ザルツブルク大司教と喧嘩したのを機に首都ウィーンへ転居する。その後も名曲を書くが「レクイエム」で「涙の日」までを校訂し終えた所で亡くなった。

これが彼の生涯ですが、その短い人生の間に生み出された曲はどれも素晴らしいものがあります。私は特に後期三大交響曲(39,40,41)とレクイエム、ピアノ協奏曲20番は絶品だと思います。

彼の音楽は実際に音に合わせて手を動かしてみると分かりますが大変、音同士のまとまりが取れています。これがすっきりと明快な音楽を築いています。余りにもまとまっているため主題が戻ってきても飽きさせません。彼が金管楽器を嫌っていたことも幸いしています。金管を特に抑えたため、やわらかい響きを出せる弦楽器や木管楽器を前面に出すことができたのです。

ただ例外もあります。例えば絶筆となった「レクイエム」の「怒りの日」ではモーツァルトのもう一つの面-不安に満ち、感情的になってしまったモーツァルト-もうかがい知れます。私はこの部分が一番好きです。

モーツァルトの音楽は癒しの音楽だと言われますがそれはモーツァルトの音楽を「鑑賞している」のではなく「利用している」に過ぎません。モーツァルトを鑑賞しましょう!

水曜日, 10月 04, 2006

ライブ録音とスタジオ録音

最近の多種多様な録音形態でも昔からほとんど変わっていない形態分けがある。ライブ録音とスタジオ録音という分け方だ。

ただ、これは人によって好みが大きく分かれる所でもある。それを踏まえてか最近はライブ+スタジオという形態もある。

ライブ録音の特徴は、もしその演奏が演奏会で熱狂的な観衆の拍手を受けて最高の演奏をしたならば、それが録音になるという長所がある。録音は「記録」であるということを如実に示す形態だ。逆に、ライブ特有のミスがそのまま記録されると言う短所もあり、オーケストラの本領が十分に発揮されたかどうかは怪しまれるかもしれない。

一方、スタジオ録音は、観衆といえば数人の技術者とオーケストラ関係者だ。彼らは拍手することは禁じられるし、熱い目でオーケストラを見つめる必要もないだろう。しかし、スタジオ録音では指揮者の理想とする音楽を最新技術を使って実現できる。楽器の別採りなども可能だし、編集も可能だ。

これらの長所と短所はうまく生かされるべきだろう。また例外もある。例えばフルトヴェングラー指揮の 1944 年のウィーン・フィルとの「英雄」は実際は聴衆無しのスタジオ録音であるがその熱気たるや壮絶なものがある(インターネットで録音が聴けます。こちら)。

ライブだろうがスタジオだろうが大事なのは音楽を誰に向かって演奏するのかということだろう。

日曜日, 10月 01, 2006

演奏を聴くときのマナー

久しぶりです。最近、MJ の方が忙しくてこっちにまで手が回りませんでした(今はフォーラムに繋がらないんです。なぜ?)。

さて、とかく言われるのが演奏を聴くときのマナーですね。NHK 交響楽団にあのブロムシュテットが客演してブルックナーの交響曲3番を指揮したときのこと。何人かの人々が終了直後に拍手をし始めた。多くの人はこれを止めさせようともしたが、「神に捧げられた音楽」を彼らは愚かにも台無しにしてしまった。

かつて指揮者「ムラヴィンスキー」は「私は聴衆のために演奏しているのではない」と言い、自己の音楽が神に捧げられていることを明らかにした。ブロムシュテットも牧師の子としてブルックナーの音楽に格別の感情を持って演奏したはずだ。それを勇み足のような拍手は台無しにしてしまった。

ヨーロッパの演奏会を聴くと、あのウィーン・フィルが演奏したとき、聴衆は数秒、置いてから拍手を始めた。彼らは音楽の余韻を楽しんでいるという。そうしたことができるようになるべきだろう。

金曜日, 9月 22, 2006

ショスタコーヴィチを聴く

今、NHK 交響楽団の演奏会をラジオで聴いています。今日はオール・ショスタコーヴィチ特集で指揮はロシア出身(現在は亡命したためアイスランド国籍)の音楽監督・アシュケナージです。

ドミトリー・ショスタコーヴィチ(1906 ~ 1975)は旧ソ連時代の大作曲家です。ソ連時代には「ソ連が生んだ初めての音楽の天才」とまで称されていた人ですが、周りが相次いで亡命する中、唯一、亡命せずに命の危険を感じつつも作曲活動をした人です。彼の音楽は大変、難しいと思います。なぜなら言いたいことが表面からは感じ取れないのです。いくつかの交響曲では「戦争の勝利」と自称しておきながら大変、暗い終わり方をするものもあり矛盾が生じています。そのため、不可解な音楽を嫌う当局により何回も弾圧されました。

彼の音楽を最も理解していたのはその初演を幾度と無く行ったエフゲーニ・ムラヴィンスキーでしょう。彼はレニングラード・フィルを長く音楽監督していましたが、ショスタコーヴィチの交響曲を演奏して楽団員がなかなか理解しないのでこう言い放ったそうです。「君たちはこの曲がいつの時代に書かれたか分かっているか!」ショスタコーヴィチの音楽は、ただのオーケストラ作品ではありません。ベートーヴェンと同じ感情的な音楽です。ムラヴィンスキーはそれを踏まえたうえでスコアを深く分析して指揮しています。そしてそれを自信をもって演奏する。これこそ作曲者の望んだことだったのではないかと思います。

ショスタコーヴィチの音楽はオルガンを使っていないのにオルガンのような響きを出す技法が優れていると思います。弦楽器と金管楽器をうまくブレンドしたその音は重厚な響きを作り出します。これは少しでもズレれば致命的なものです。ムラヴィンスキーやバルシャイ(ロシアの指揮者。交響曲全集をリリースしている)などの指揮者の腕が光っています。

私はショスタコーヴィチの音楽が好きです。その恐ろしい、今にも KGB が玄関に迫ってくるような音楽を共感することが。

土曜日, 9月 16, 2006

バックハウスを聴く

バックハウスのベートーヴェン・・・といえば「レコード芸術」などで有名な音楽評論家・宇野功芳をしてこういわせた--
「(バックハウスのベートーヴェンピアノソナタ全集は)クラシック音楽の愛好家にとっても、また専門のピアニストにとっても聖典といえるもので、男性的な雄々しさ、スケールの大きさ、内容の深さにおいてほかのピアニストの遠く及ぶところではない。」(学研「クラシックCDエッセンシャルガイド100 ピアニスト編」から「ヴィルヘルム・バックハウス」の項所収)

私はまだ、彼の全集を聴いていない。私が聴いたのは「ベートーヴェン四大ピアノソナタ集」(Decca UCCD-7002、「悲愴」「月光」「ワルトシュタイン」「熱情」)である。これはいずれも全集からセレクトされたものである。そしてこれは私が初めて買ったベートーヴェンのピアノソナタの CD でもあった。最近の音楽家は確かにミスタッチもなく正確に弾いてくれるのだが、その演奏に作曲家がいない。だが、バックハウスの音楽はまるでベートーヴェンが降臨したかのようである。彼の(一般的な意味での)技術力はどちらかと言えば現代ピアニストに比べ劣っている。だが、記者に「暇なときは何をしていますか?」という問に「・・・ピアノを弾いています」と答えたこのピアニストは技術を超えたものを我々に感じさせる。フルトヴェングラーもそうだったが、何と凄いだろう。彼の音楽は常にピアノをチェロのような音色で弾く印象がある。彼はピアノで遊ばない。どんなに軽い旋律も彼はじっくりと味わうように奏でる。彼はベートーヴェンの心を最もよく理解しているのではないだろうか。ベートーヴェンに春が訪れたのは交響曲4番を書いていたほんの数ヶ月だけだった。ベートーヴェンは少年時代、そして青年時代、そして大作曲家時代、晩年を通して常に冬であった。このことをバックハウスはよく理解している。ベートーヴェンの音楽はそれをよく精神的に研究した人や同じぐらいの苦悩を味わった人にのみ理解されるものである!